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研究内容

人間の触錯覚のメカニズムを数理皮膚科学によって解明 — 世界で初めて「魚骨触錯覚の消失現象」を発見,技術開発応用への期待 —

掲載日:
人間数理研究分野

ポイント

  • 数理皮膚科学モデルを構築し,触覚情報処理のメカニズムを計算機実験で解明。
  • 触覚で生じる錯覚現象を活用して,その触錯覚が生じなくなる現象を世界で初めて発見。
  • インターネットを通して遠隔に触質感情報を効率よく伝達する情報技術開発への応用に期待。

概要

北海道大学電子科学研究所の長山雅晴教授,慶應義塾大学環境情報学部の仲谷正史准教授らの研究グループは,科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業の支援を受けて,人間の触覚による形状認識の仕組みを説明する数理モデルの構築とその検証研究を行い,触覚で生じる錯覚現象(触錯覚)*1を活用して,その触錯覚が生じなくなる現象を世界で初めて発見しました。

ヒト触知覚メカニズムの全容は,五感の他の感覚に比べると未解明です。私たちは手の指先で触れている物体の硬さや滑らかさ,その形を瞬時に認識することができますが,このような能力は人工知能(AI)を駆使したロボット工学でもにわかに実現することが難しいのが現状です。

研究グループは,ヒト触覚の形状認識の仕組みを知るために,触覚で生じる錯覚現象を活用し,その触錯覚が生じなくなる現象を世界で初めて発見し,この現象を説明する数理モデルを皮膚科学・生物物理学・神経科学の知見を融合して構築しました。その結果,ヒトが指先の触覚を通じて形を認識する際には,触覚刺激の強度を反映した感覚神経活動の頻度だけでなく,多数の感覚神経活動の時間的な頻度と非同期性(タイミングのばらつき方,Temporal coherency)*2が形の認識に影響を与えることがわかりました(p.1 図)。

この研究成果は,インターネットを通して遠隔に高品質な触覚情報を伝達するための基本技術の開発に役に立ちます。COVID-19 下で対面の応対が制限される社会状況の中でも,触覚を通じた人間同士の非言語コミュニケーションを実現する情報基盤の整備にも役立つことが期待されます。

なお,本研究成果は,2021年6月3日(木)公開のScientific Reportsのオンライン版に掲載されました。

触錯覚を引き起こすメカニズムの概略図。規則的な凹凸刺激による感覚神経活動の時間的な頻度と時間的な非同期性(タイミングのばらつき)が人間の触覚における凹凸形状認識に影響を与えうることを心理学実験と数理モデリングを通じた計算機シミュレーションの相補的研究 によって明らかにした。

【背景】

ヒト触知覚の全容は,五感の他の感覚に比べるとわかっていることが少ないのが現状です。その一例として,指先で触れているものの形(凹凸形状)をどのようにして認識しているのかについては,心理科学や神経科学の手法によって研究が行われてきていますが,私たちが日常生活で体験する現象に広く汎化できる知見については研究の余地が残されています。研究グループは,Fishbone Tactile Illusion (魚骨触錯覚)*3 という凹凸形状の錯覚が引き起こされることを研究によって明らかにしましたが,その知覚メカニズムを神経科学の研究手法で直接得るためには,多数の感覚神経から同時に末梢神経活動を計測する必要があり,その検証実験は現時点の技術でも実現が難しいのが現状でした。

【研究手法】

本研究では,前述の触覚の錯覚現象を利用して,人間の手の指先における凹凸形状認識の性質についてヒト官能評価を通じて定量化しました。指先に物体が触れる際には,皮膚を押し込む方向の変形(垂直変位)と皮膚を伸縮させる方向の変形(水平変位)がありますが,この水平変位を実験的に減弱する方法を援用した心理実験を実施した結果,統計的有意に錯覚量が減少しました。この結果自体,ヒト触知覚特性を明らかにする現象として興味深いものですが,本研究ではその背後にある触認知メカニズムに迫る研究を実施しました(p.1 図)。

具体的には,生体触覚センサが持つ機械受容イオンチャネル*4の性質を加味した機械受容器の応答特性モデルを援用し,複数の機械受容器が1本の感覚神経に接続して情報統合を行なう仕組み,それが神経活動電位に変換される仕組みを Hodgkin-Huxley 方程式*5を援用した数理モデルによって表現し,コンピュータ上で機械受容器を再現しました(図 1)。この機械受容器を 72 個並べることでヒト指腹部の機械受容野を構築しました。いわゆるバーチャルな触覚センサを計算機上に設計した上で,前述の触錯覚現象を生じさせる機械刺激をシミュレーションし,指先の感覚神経が生じさせるであろう末梢皮膚内の感覚神経群の時空間応答を予測しました(図 2)。

【研究成果】

心理実験と数値シミュレーション実験の結果を組み合わせて解釈を行った結果(図 3),触覚刺激が触覚感覚神経の応答情報に変換される際に,72 本の感覚神経が同時に応答するのではなく,時差を持って応答することでヒトの指先における触覚形状認知をもたらしうることを示しました。

【今後への期待】

本研究による知見は,私たちが身近に感じている触覚の現象(柔らかい感覚やスベスベした感覚)を感覚神経科学の観点から説明する数理感覚の数理モデルとして利用することが可能です。現行の神経科学の研究手法(マイクロニューログラム法)では,単一もしくは少数の感覚神経の応答を計測することは可能であっても,日常的に体験する触覚刺激を提示した場合に,多数の感覚神経応答を高精度に計測する技術は確立していません。本研究の知見を利用することで,計算機上で感覚神経応答をシミュレーションすることができれば,複雑な触覚刺激に対しての応答特性や,未解明である触知覚・認識の神経基盤を末梢神経科学の視点から明らかにすることに貢献できます。また将来,多数の感覚神経応答を同時に計測する技術が開発された場合に本研究が予測している結果との違いを比較することで,新たなる触覚神経科学の知見創出につながります。

短期的な応用先には,遠隔に触覚を伝達する技術における情報生成アルゴリズムの開発や,その知見に基づく触質感再現装置の開発が期待されます。また,疾病や障害により手足の感覚神経が失われた手足そのものを失ったりする場合に装着する義手・義足への触覚入力をセンシングして感覚神経に伝達する神経義手・義足の開発にも本研究の知見が有用です。

将来的には,中枢神経系に直接,末梢の感覚神経情報を伝達する脳埋め込み型の情報伝達技術の基盤となる研究成果と捉えています。

【謝辞】

本研究は,以下の事業・研究領域・研究課題の支援のもと行われました。

科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)

研究領域:「現代の数理科学と連携するモデリング手法の構築」
(研究総括:坪井俊 武蔵野大学 特任教授)
研究課題:「数理モデリングを基盤とした数理皮膚科学の創設」
(課題番号:JPMJCR15D2)
研究代表者:長山雅晴 北海道大学 電子科学研究所 教授

科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)

研究領域:「社会と調和した情報基盤技術の構築」
(研究総括:安浦寛人 九州大学 理事・副学長)
※所属・役職は、活動終了時点のものです
研究課題:「安心感の醸成と孤独感の低減をめざす Emotional Reality 情報技術の確立」
(課題番号:JPMJPR16D7)
研究者:仲谷正史 慶應義塾大学 准教授

論文情報

論文名 Temporal coherency of mechanical stimuli modulates tactile form perception(触刺激の時間同期性が触覚における形状知覚を形づくる)
著者名 Masashi Nakatani1,Yasuaki Kobayashi2,Kota Ohno2,Masaaki Uesaka3,Sayako Mogami4,Zixia Zhao2,Takamichi Sushida5,Hiroyuki Kitahata6,Masaharu Nagayama21慶應義塾大学環境情報学部,2北海道大学電子科学研究所,3東京 大学大学院数理科学研究科,4慶應義塾大学 総合政策学部,5サレジオ工業高等専門学校情報工学科,6千葉大学 大学院理学研究院)
雑誌名 Scientific Reports
DOI 10.1038/s41598-021-90661-1
公表日 公表日2021年6月3日(木)(オンライン公開)

お問い合わせ先

<研究に関すること>

北海道大学電子科学研究所 教授 長山雅晴(ながやままさはる)
TEL 011-706-2891
メール nagayama[at]es.hokudai.ac.jp
URL http://www-mmc.es.hokudai.ac.jp/
慶應義塾大学環境情報学部 准教授 仲谷正史(なかたにまさし)
TEL 0466-49-3497
メール mn2598[at]sfc.keio.ac.jp
URL https://touchlab.sfc.keio.ac.jp/
<JST の事業に関すること>

科学技術振興機構 戦略研究推進部 ICT グループ 舘澤博子(たてさわひろこ)
TEL 03-3512-3526
メール crest[at]jst.go.jp

配信元

北海道大学総務企画部広報課(〒060-0808 札幌市北区北8条西5丁目)
TEL 011-706-2610
FAX 011-706-2092
メール jp-press@general.hokudai.ac.jp
慶應義塾大学湘南藤沢事務室学術研究支援担当(〒252-0882 神奈川県藤沢市遠藤 5322)
TEL 0466-49-3436
FAX 0466-49-3594
メール kri-pr[at]sfc.keio.ac.jp
科学技術振興機構総務部広報課 (〒102-8666 東京都千代田区四番町5番地3)
TEL 03-5214-8404
FAX 03-5214-8432
メール jstkoho[at]jst.go.jp

【参考図】

図1.皮膚感覚を説明するために構築した数理モデルの概念図

手の指先に提示する触覚刺激の中から,(a)皮膚垂直方向の機械刺激を取得するために,多数のピンを並べた実験装置を利用して,心理実験を行った。本研究で構築した,生体触覚センサ(機械受容器)の応答を表現する数理モデルは (b)機械刺激を記述する変位モデル,(c)機械刺激を受ける機械受容体モデル,(d)複数の機械受容体が接続した受容野での神経電位伝播モデル,(e)複数の受容野が配置された指先の受容野配置モデルから構成した。

図2.皮膚感覚の数理モデルによる計算機実験結果の一例

手の指先に魚骨錯覚パターンを提示していた様子(a)と,(b)〜(d)は 3 つの連続した時間(519 – 521 ms,1ms=0.001 秒)における,機械刺激に対する機械受容器・機械受容野の典型応答を示している。 6x12 個に並んだ円形領域は機械受容野を表しており,その活動電位 v(t)をカラーバーの凡例のように示す。赤は興奮状態,青は静止状態に相当する。それぞれの機械受容野には,その周囲に配置された。

4つの機械受容器は膜電位変化を統合して神経活動に変換する電位開始部位を持つ。機械受容器の膜電位 g(t)は,グレースケールの凡例で表現している。

図3.魚骨触錯覚の心理学実験結果と数理モデルによる計算機実験結果の比較

実験参加者 12 名に魚骨パターンのあばら骨間隔が異なるサンプル1対を提示し,(a)サーストンの1対比較法*6によって調べた心理実験結果。素手で触れる場合には,あばら骨間隔が 4.0mm から 0.4mm に至るに従って,「よりへこんで感じる」確率が高くなる。対して,触覚刺激の水平変位を減弱させる実験操作をピンマトリックス*7を用いて行った場合,あばら骨間隔が 1.0mm と 2.0mm において急激に「よりへこんで感じる」確率が低下した。このヒト触知覚特性を検討するために,計算機実験を実施した結果,(b)すべてのピンマトリックス条件で,あばら骨間隔が 0.4mm のとき,感覚ニューロンの神経活動電位の発火頻度は最大となった。一方で, (c)神経活動電位の時間的な非同期性をシャノン情報量によって評価した結果では,あばら骨間隔が 1.0,2.0,3.0mm のときに急激な減少を示した。(b),(c)の計算機実験の結果を,ヒト触知覚特性(a)と相関解析を行ったところ,神経活動電位の発火頻度だけでなく,神経活動電位の非同期性が統計的有意に相関することがわかった。

【用語解説】

*1 触覚で生じる錯覚現象(触錯覚)… 視覚の錯視や聴覚の錯聴があるように,触覚にも錯触が報告されている。アリストテレスの錯触覚やベルベット・ハンド錯触覚が著名な例として知られる。

*2 多数の感覚神経活動の時間的な頻度と非同期性(タイミングのばらつき方,Temporal coherency) … 神経活動応答の様子を解析する方法には,神経活動量(神経発火の頻度)を解析する方法や複数の神経活動応答の時間同期性を解析する方法など,複数の解析手法が提案されている。本研究では,生体触覚センサが手の指先に多数空間配置されていて,それらが時間とともに応答する様子(時間同期性)をシャノン情報量と呼ばれる指標を用いて定量化した。

*3 Fishbone Tactile Illusion(魚骨錯触覚) … 魚の背骨とあばら骨をイラスト化した絵(下図(a))。骨の部分がわずかの凸上に盛り上がっており,その図を指腹部で上下になぞると真ん中の盛り上がっているはずの背骨の部分かが凹んで感じる触覚の錯覚現象を起こす。

*4 機械受容イオンチャネル … 生体触覚センサは,機械受容イオンチャネルが機械刺激によって開いて細胞内の電位が変化するメカノトランスダクション(機械―電気変換)によって接触を検知する。その後,細胞膜の電位上昇が皮膚内部に侵入している末梢神経の電位スパイク開始部位で神経活動に特異的な電位応答(神経発火スパイク)に変換される。触覚を司る生体触覚センサでは,Piezo2チャネルと呼ばれる機械受容イオンチャネルが発現していることが過去の生物物理学の知見で知られている。

*5 Hodgkin-Huxley 方程式 … 1952 年,Hodgkin 博士と Huxley 博士より提出された大ヤリイカの神経軸索上での神経インパルスの活動電位を説明する数理モデル。一連の研究によって 1963 年にノーベル医学・生理学賞を受賞している。

*6 サーストンの一対比較法 … 任意の 2 つの対象を取り出して 1 対 1 で比較し,すべての比較結果を統合して評価を行う方法。この研究では 2 つのあばら骨間隔の異なる魚骨触錯覚パターン(下図 a, b)を用いて,2 つどちらの方がより真ん中の背骨が凹んで感じるか評価している。

*7 ピンマトリックス … 上下に動くピンが正方形の敷き詰められている実験器具(下図b中)。この上に指先を乗せて凹凸のある魚骨パターンをなぞると、ピンが上下動することで手の指腹部に 触刺激を提示することができる。

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