ポイント
- 嚥下障害の原因となる⾷道の動きの異常は原因がよくわかっていない
- ⾷道の動きを再現する数理モデルの開発に成功
- ⾷道の病気の原因解明や治療法開発への貢献に期待
概要
ものを⾷べるときに、飲み込みにくいと感じる経験をしたことがある⼈は多いと思います。このような嚥下障害は⾷道の動きの異常が原因で、誤嚥性肺炎などのさまざまな病気の元になるため医学的にも重要です。近年、このような⾷道の動きの計測⼿法が発達して、⾷道特有の不思議な挙動が数多く明らかになってきましたが、これらがどのように⽣じるかは理解されていませんでした。
本研究では、⾼精度の蠕動運動(※1)の計測⼿法と数理モデル(※2)とを組み合わせて、⾷道に特有の蠕動運動のメカニズムを解明する枠組みを開発することに成功しました。
九州⼤学⼤学院医学研究院系統解剖学分野の三浦岳教授と病態制御内科学分野の⼩川佳宏教授、伊原栄吉准教授、城⻄⼤学理学部の栄伸⼀郎教授、北海道⼤学電⼦科学研究所の⽯井宙志助教らの研究グループは、⾷道の動きをシンプルな数式で再現する新しい数理モデルを開発しました。このモデルは、「脳からの指令」→「腸の中の神経ネットワーク」→「筋⾁の動き」という流れを再現したもので、特に、下部⾷道括約筋(LES, ※3)と呼ばれる部分では“オン・オフ”の切り替えスイッチのような仕組みを取り⼊れています。実際にこのモデルで、正常な⾷道がどのように⾷べ物を運ぶかを再現できたほか、シカゴ分類(※4)と呼ばれる国際的な診断基準にある、さまざまな病的な⾷道の動きも、パラメーターを調整することで再現できました。
この研究は、⾷道の病気の原因解明や、新しい治療法の開発にもつながる可能性があります。本研究成果は英国の雑誌「Royal Society Open Science」に 2025年8⽉20⽇(⽔)午前8時5分(⽇本時間)に掲載されました。

【研究の背景と経緯】
⾷べ物を⼝から胃へとスムーズに送るには、⾷道の“蠕動運動”という動きが必要です。最近では、⾼解像度内圧検査(HRM)(※5)などの観察技術の進歩によって、この⾷道の動きが思った以上に複雑でユニークであることがわかってきました。例えば、下部⾷道括約筋(LES)が「オン・オフ」のように切り替わる仕組みや、何度も連続して飲み込んだときには最後の動きだけが伝わる“嚥下抑制”(※6)、動きが必ず⼀⽅向に伝わる性質、さらには“腸の法則” (※7)と呼ばれる上下で異なる反応など、さまざまな現象が確認されています。これらは、胸の痛みや飲み込みづらさ、誤嚥による肺炎といった症状と関わっていて、医療現場でも重要です。ところが、こうした多様な動きをまとめて説明できる理論的なモデルは、まだありませんでした。これは、⼈間特有の動きであるため、実験的に調べるのが難しいためです。
【研究の内容と成果】
本研究では、⼈間の⾷道における正常な蠕動運動の特徴を再現できる数理モデルを構築しました。具体的には、嚥下前に下部⾷道括約筋(LES)が収縮したままで、他の部分が弛緩している定常状態、嚥下による収縮パルスの⼀⽅向伝播、⾷道下部での拡張(いわゆる「腸の法則」)、⾷道中部の刺激による前⽅伝播のみの現象(単⽅向性)、さらに連続嚥下時に最後のパルスのみが伝播するという現象まで、複数の⽣理的運動を再現することに成功しました。また、モデルの数理解析によって、LES 領域におけるトグルスイッチ型(双安定的)ダイナミクス(※8)や、興奮伝播速度が中枢・末梢神経系のパラメータによって制御されることを理論的に⽰しました。これにより、蠕動運動の速度や⽅向性の異常がどのようなパラメータ変化で⽣じるかを予測する枠組みが得られました。

さらに、パラメータの組み合わせを変えることで、シカゴ分類に基づく多様な⾷道運動異常(例えば、⾷道胃接合部通過障害(※9)、アカラシア(※10)の各タイプ、遠位⾷道痙攣(※11)、ジャックハンマー⾷道(※12)、無蠕動など)を再現することにも成功しました。それぞれの異常は、神経信号の強さ、閾値、筋収縮特性、伝導経路の⻑さや偏りなど、具体的な⽣理学的要因の変化として数理的に表現されました。特に、異常収縮や伝播の⽋如、過剰な筋収縮などを引き起こす条件を明⽰することで、これらの疾患の発症メカニズムに対する理解を深めるとともに、将来的には診断や治療への応⽤も期待されます。

【今後の展開】
今回の数理モデルは、ヒトの⾷道蠕動運動の仕組みを理論的に解明するための第⼀歩であり、今後さまざまな応⽤が期待されます。まず、異常な⾷道運動がどのように起こるのか、その原因をパラメ ータの組み合わせから推測できるため、疾患の発症メカニズムの理解に役⽴つ可能性があります。
さらに、将来的には、より複雑な「ジャックハンマー⾷道」などのねじれた形状を持つ状態を再現するために、モデルを⼆次元化することも計画しています。神経の種類ごとに別々の動きを取り⼊れることで、薬の効果をシミュレーションするような応⽤も期待できます。
また、発⽣段階における⾷道運動の変化を理論的に捉えることで、胎児期から成⼈に⾄るまでの機能発達の研究にもつながると考えています。今後は、適切な実験系の整備とともに、ヒト特有の運動パターンに対する検証⼿法の確⽴が求められます。
【用語解説】
(※1) 蠕動運動(ぜんどううんどう)
説明:管状の臓器において、筋⾁の収縮と弛緩が波のように連続して進むことによって、内容物を⼀定⽅向に送り出す運動。⾷道では、嚥下に伴いこの運動で⾷塊を胃へ運ぶ。
(※2) 数理モデル
説明:⽣理的・物理的現象を数式や構造で表現した理論モデル。現象の再現や予測、介⼊の効果検証などに活⽤される。
(※3) 下部⾷道括約筋(LES: Lower Esophageal Sphincter)
説明:⾷道と胃の境界に位置する輪状筋で、通常は収縮して胃酸の逆流を防ぎ、嚥下時に⼀時的に弛緩して⾷物を通す。
(※4) シカゴ分類(Chicago Classification)
説明:⾼解像度内圧検査(HRM)に基づき、⾷道運動の異常を定量的に評価・分類する国際的な診断指針。アカラシアなどの定義もこの分類に基づく。
(※5) ⾼解像度内圧検査(HRM: High-Resolution Manometry)
説明:⾷道内の圧⼒分布を⾼い空間分解能で測定する装置。⾷道運動異常の診断に⽤いられ、従来より詳細な圧⼒マッピングが可能。
(※6) 嚥下抑制(deglutitive inhibition)
説明:嚥下によって⼀時的に⾷道筋の⾃発的な収縮が抑えられる神経制御現象。⾷塊の通過をスムーズにするために重要な役割を果たす。
(※7) 腸の法則(law of the intestine)
説明:消化管における刺激に対して、⼝側は収縮、肛⾨側は弛緩するという反射的な運動の法則。⾷道でも同様の反応が観察される。
(※8) トグルスイッチ型(双安定的)ダイナミクス
説明:2 つの安定状態(例:収縮と弛緩)を持ち、ある刺激によって⼀⽅から他⽅に切り替わる⾮線形システムの特性。バイスタブルとも呼ばれる。
(※9) ⾷道胃接合部通過障害
説明:⾷道胃接合部(EGJ: Esophagogastric Junction)が適切に開かず、⾷塊の胃への通過が妨げられる病態。⾷道運動機能障害の 1 つ。
(※10) アカラシア
説明:⾷道蠕動が消失し、LES が適切に弛緩しないことで、⾷塊が胃へ送れなくなる疾患。つかえ感や胸痛を伴う。⾷道運動機能障害の 1 つ。
(※11) 遠位⾷道痙攣(DES: Distal Esophageal Spasm)
説明:⾷道下部が通常より早く収縮する状態。嚥下困難や胸部不快感を引き起こす。⾷道運動機能障害の 1 つ。
(※12) ジャックハンマー⾷道(Jackhammer esophagus)
説明:⾮常に強く持続的な収縮が⾷道に⽣じる疾患。HRM で診断され、蠕動が過剰になることが特徴。⾷道運動機能障害の 1 つ。
【謝辞】
本研究は JSPS 科研費 (JP20K08334, JP22K19530, JP23K07440)、JST CREST (JPMJCR14D3, JPMJCR14W4)、AMED (JP21lk0201144)の助成を受けたものです。
論文情報
- 掲載誌
- Royal Society Open Science
- タイトル
- A mathematical model of human oesophageal motility function
- 著者名
- Takashi Miura, Hiroshi Ishii, Yoshitaka Hata, Hisako Takigawa-Imamura, Kei Sugihara, Shin-Ichiro Ei, Xiaopeng Bai, Eikichi Ihara, Yoshihiro Ogawa
- DOI
- 10.1098/rsos.250491
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- TEL 049-271-7543
- FAX 049-271-8028
- Mail koho[at]josai.ac.jp
- 北海道⼤学 社会共創部 広報課
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